聖蹟桜ヶ丘の記憶シリーズ
聖蹟桜ヶ丘の記憶・1
アニメーター・近藤喜文さんと佐藤好春さんと
映画『耳をすませば』は、京王線・聖蹟桜ヶ丘の街並みが参考にされたといわれています。この映画の監督を務めた近藤喜文さんは、1978年から1980年、そして1986年に、聖蹟桜ヶ丘にある「日本アニメーション」で勤務し、日々この街で過ごしていました。
今回は、そんな聖蹟桜ヶ丘時代の近藤喜文さんをよく知るアニメーター・佐藤好春さんにお話を伺いました。近藤さんがこの街で見ていた風景、歩いた道、そして佐藤さんの記憶に残る時間。その一つひとつを、聖蹟桜ヶ丘の記憶として、ここに残していきたいと思います。
出会いは『赤毛のアン』の現場
佐藤好春さんが日本アニメーションに入社したのは1979年4月。研修を終えて現場に入った頃、制作の中心にあったのが『赤毛のアン』(1979年放送)でした。
新人として朝から出社する佐藤さんに対し、『赤毛のアン』でキャラクターデザイン・作画監督を務めていた近藤喜文さんをはじめとするスタッフたちは、夜から朝にかけて仕事をすることが多く、最初は顔を合わせられる時間も限られていたといいます。それでも、週末など、作業のタイミングが重なる時には、近藤さんたちと一緒に朝を迎えることがありました。
徹夜仕事を終えたあと、聖蹟桜ヶ丘駅前の喫茶店までみんなで歩き、モーニングを食べて解散する。その時間は、厳しい制作の合間にふっと訪れる、忘れがたいひとときだったそうです。若い佐藤さんにとって、近藤さんはまだ少し遠い存在でありながら、同じ現場の空気を吸い、同じ朝を迎えた相手でもありました。
近藤さんは、立場としてはまだ遠い存在でしたが、ごくまれに若い佐藤さんたちにも声をかけ、仕事の中でさりげなくアドバイスをくれることがありました。まだ新人だった佐藤さんにとって、近藤さんがふと気にかけてくれることはうれしく、その何気ないやりとりも、忘れがたい記憶として残っているそうです。
東京都多摩市和田にある日本アニメーション本社(多摩スタジオ)。
最寄り駅は京王線・聖蹟桜ヶ丘駅で、1975年の創業時からこの地にあります。
今も手元に残る『赤毛のアン』のラフ
当時の記憶を今につなぐものとして、佐藤さんの手元には、近藤さんが描いた『赤毛のアン』のラフが残されています。
近藤さんが描いた線の勢いや、たとえ制作過程で役目を終えた絵であっても、そこには仕事の息づかいが感じられるといいます。
そうした絵は、単なる資料というより、佐藤さんにとって近藤さんと過ごした時間そのものを思い起こさせるものなのかもしれません。
出会ったばかりの頃に見た仕事ぶり、ふと声をかけてもらった時のこと、近藤さんの絵に惹かれていった気持ち——そうした記憶が、今も絵と一緒に残っているようです。
『トム・ソーヤー』の頃、近藤さんとの距離が近くなる
『トム・ソーヤーの冒険』(1980年放送)の頃になると、佐藤さんと近藤さんの距離は少し近くなっていきます。
この頃の印象的な思い出のひとつが、横浜の氷川丸を見に行ったことでした。作中に蒸気船が登場するものの、船の舵など細かな構造がわからない。そこで、実際に見に行こうということになり、作画スタッフ数人で横浜の氷川丸まで足を運んだそうです。
写真に残すというよりも、自分の目で見て、焼きつける。佐藤さんの記憶にあるのは、カメラで撮影したことではなく、実物を見に行ったその体験そのものだったといいます。机の上だけで考えるのではなく、実際に見に行き、自分の目で確かめる。そうした姿勢も、近藤さんと過ごす中で佐藤さんが感じ取っていった、大切なことのひとつだったのかもしれません。
神奈川県横浜市にある氷川丸。聖蹟桜ヶ丘からは約2時間弱はかかります。
近藤さんと歩いた聖蹟桜ヶ丘の道 大栗川沿いとダイモ喫茶店、シナモンの思い出
昼になると、佐藤さんは近藤さんたちと2〜3人で、聖蹟桜ヶ丘駅近くまで歩いて食事に出ることがよくあったそうです。
日本アニメーションがある和田から、東寺方の坂、通称「おばけ坂」を下り、大栗川沿いの道を通りながら、季節や天気、その日の気分によって、行きと帰りの道を変えることもありました。ときには、あのいろは坂、桜ヶ丘団地を経由して、日本アニメーションに帰ったそうです。
昼食や休憩で立ち寄った店の記憶も、佐藤さんの中では聖蹟桜ヶ丘の風景と強く結びついています。
よく行ったのは、雑居ビルの2階にあった「ダイモ喫茶店」や、今もある喫茶店「シナモン」など。駅前へ向かう途中の道や、川沿いの景色とあわせて、それらの店もまた近藤さんとの思い出の一部になっています。
特に印象深いのは、のちに近藤さんが去った後、店の人が近藤さんのことを覚えていたという話です。名前までは出なくても、「あのひょろっとした人はどうしたの」と話題にされたことが、どこか近藤さんらしく、また街の中に確かに存在していた人だったことを感じさせます。作品の中だけではなく、実際のまちの記憶の中にも、近藤さんは生きていたのです。
左がダイモ喫茶店のあったビル。右は今も営業中のシナモン。
街を歩きながら語り合った企画のこと
聖蹟桜ヶ丘の道を歩きながら、佐藤さんと近藤さんは仕事のこと、作品のこと、これからやってみたい企画のこともよく話していたそうです。
「こういう場所を舞台にした作品をやりたい」
近藤さんはこの頃から、そう口にしていました。風景をただ眺めるのではなく、その場所から物語を思い描いていたのだと思わせる言葉です。
ときには、会社に帰った後、見た聖蹟桜ヶ丘の景色をクロッキーしていたそうです。また、企画を一緒に考えることもありました。
作品のアイデアを話し合い、絵を描き、物語の入口を探っていく時間は、佐藤さんにとってとても楽しいものだったといいます。ときには、佐藤さんのアイデアをもとに、近藤さんが絵を描いてくれたこともありました。近藤さんのそばにいることで、絵を描くことや企画を考えることが、単なる作業ではなく、もっと自由で創造的なものとして広がっていったのでしょう。
日本アニメーションからおばけ坂を下り、東寺方橋から見える聖蹟桜ヶ丘方面。
川の左が細い道、右が太い道で、行き帰りで道を変えたり、時にはいろは坂を通り昼食に出かけていたという。
近藤さんが去ったあとも残り続けたもの
やがて近藤さんは日本アニメーションを離れます。
佐藤さんにとって、それは大きな喪失感を伴う出来事でした。
もっと教わりたかった、もっと一緒に仕事をしたかった——。
そんな思いを抱えながら、近藤さんがいなくなった後もしばらく、佐藤さんはその存在の大きさを感じ続けていたといいます。
寂しさの中で、いつかまた一緒に続きを描ける日が来るかもしれない。そんな思いもあり、当時描いたアイデアの絵を清書していたこともあったそうです。
近藤さんと歩いた道、喫茶店で交わした何気ない会話、手元に残るラフやスケッチ、そして一緒に考えた企画の記憶。
そうしたものは、時間が経っても消えることなく、佐藤さんの中に残り続けました。
そして…
その後、近藤さんは別の現場で仕事をしたのち、日本アニメーションに戻ってきます。佐藤さんは近藤さんに「また一緒に仕事をしましょう」と声をかけたそうです。それは、佐藤さんにとって、かけがえのない時間だったことでしょう。
やがて近藤さん、そして佐藤さんも、スタジオジブリの仕事に関わるようになります。その後、近藤さんはジブリで、佐藤さんはジブリや日本アニメーションなど、それぞれの場所で数々の作品に関わっていきました。
そして後年、佐藤さんが『耳をすませば』(1995年公開)を見た時、「近藤さん、やったな」と思ったと語っています。かつて一緒に歩いた聖蹟桜ヶ丘の風景が、作品の中でひとつのかたちになったように感じられたからです。
佐藤さんの中には、その後も「また近藤さんが監督をやる時は、今度こそ一緒に仕事をしたい」という思いが残っていたそうです。
ところが、近藤喜文さんは1998年1月21日、47歳の若さで亡くなります。
聖蹟桜ヶ丘
佐藤さんは、別の現場で近藤さんが「日本アニメーションの若手はよかった」と話していたことを聞いたといいます。
佐藤好春さんと近藤喜文さんが、この聖蹟桜ヶ丘で過ごした時間は、きっとかけがえのないものだったのでしょう。
近藤さんが聖蹟の風景に見ていたもの、作品へ向かう眼差し、絵に向かう真剣さは、形を変えながら、今もなおこの街に息づいているように思えます。
プロフィール
近藤喜文さんプロフィール
近藤喜文さんは、1950年、新潟県五泉市生まれのアニメーター・アニメーション監督です。
Aプロダクションなどを経て、1978年より日本アニメーションに参加。聖蹟桜ヶ丘にあったスタジオで勤務し、『未来少年コナン』『赤毛のアン』『愛の若草物語』などの作品に携わりました。
その後、テレコム・アニメーションフィルムを経て、スタジオジブリ作品にも参加。『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』などで作画監督を務め、1995年公開の『耳をすませば』では監督を務めました。
繊細な人物描写と、日常の中にある表情やしぐさを丁寧に描く作風で、多くのアニメーターに大きな影響を与えました。
1998年1月21日、47歳の若さで逝去。
日本アニメーション在籍時期:1978年~1980年、1986年
佐藤好春さんプロフィール
佐藤好春さんは、1958年、神奈川県川崎市生まれのアニメーターです。
1979年4月に日本アニメーションへ入社。『赤毛のアン』の制作現場でアニメーションの仕事に触れ、以後、世界名作劇場を中心に多くの作品に参加しました。
1986年の『愛少女ポリアンナ物語』で初めてキャラクターデザインを担当。その後、スタジオジブリに移り、1988年公開の『となりのトトロ』で作画監督を務めました。『魔女の宅急便』『おもひでぽろぽろ』などにも関わり、再び日本アニメーションに戻った後は、『ロミオの青い空』『劇場版 フランダースの犬』などでキャラクターデザイン・作画監督を担当しました。
2009年に日本アニメーションへ戻り、現在も同社に所属。近年では、劇場アニメ『シンドバッド』や、KOBELCO120周年記念アニメーション『あしたのありか』などでもキャラクターデザイン・作画監督を務めています。
日本アニメーション在籍時期:1979年~1986年頃/その後再び在籍し、1997年頃まで勤務/2009年より再入社し現在に至る
※途中、スタジオジブリ作品やフリーランスでの活動期間を含む。
日本アニメーション株式会社プロフィール
日本アニメーション株式会社は、1975年に東京都多摩市で設立されたアニメーション制作会社です。
『フランダースの犬』『母をたずねて三千里』『あらいぐまラスカル』『赤毛のアン』『トム・ソーヤーの冒険』などの「世界名作劇場」シリーズをはじめ、『未来少年コナン』『ちびまる子ちゃん』『うっかりペネロペ』など、世代を超えて親しまれる作品を数多く手がけてきました。
同社には、宮﨑駿さん、高畑勲さんも在籍・参加していた時期がありました。高畑さんは『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』などで演出を務め、宮﨑さんは『母をたずねて三千里』で場面設定・レイアウト、『赤毛のアン』でも場面設定・画面構成などを担当しました。また、『未来少年コナン』では、宮﨑さんが監督を務めています。のちにスタジオジブリを代表することになる作家たちも、この聖蹟桜ヶ丘で作品づくりに向き合っていました。
近藤喜文さんや佐藤好春さんが勤務した聖蹟桜ヶ丘のスタジオは、多くの名作が生まれた場所でもありました。『赤毛のアン』や『トム・ソーヤーの冒険』の制作期には、聖蹟桜ヶ丘の街を歩き、食事をし、語り合う日常の中で、作品づくりに向き合う時間が流れていました。
聖蹟桜ヶ丘を歩いているとき、近藤さんが、佐藤さんに「宮崎さんから聞いたのだけど、あの建物が未来少年コナンの、三角塔のモデルになった」とも語りました。
現在も日本アニメーションは、映像作品の企画制作、国内外への配給、キャラクター商品の企画開発、ライセンス展開などを行い、アニメーションを通じて多くの人々に物語を届け続けています。